半農半弓

半農半弓
 
  
 創部50周年おめでとうございます。「アーチャー生涯現役」を目指して何処まで出来るか実践中なので参考までに近況を御報告します。
60歳で鉄鋼会社(住友金属工業)を定年退職して8年が過ぎました。定年後何をするかは早い段階で決めていましたが実現は難しいかなとも思っていました。何をするか勿論アーチェリーではありません。42~3歳の頃考えた事は月のうち10日間ぐらいはキャンピングカーで日本全国を旅行する、そして残り20日は晴耕雨読がいいかなとかなり本気で考えていました。ただ其の時はまだ運転免許も持っていないのにそんなことを漠然と考えたものでした。 10年後の52歳で地方(沼津)に転勤(出向)し、住まいを決めた後会社に通う交通手段がない事がわかり、其の御蔭で免許をとり、ああこれで実現性が出てきたなと思ったものです。ただ3年間は通勤で車に乗っていましたが定年までと思っていた地方勤務が3年ほどで本社(東京)に戻ってきたのが計算外でそれ以降、車をやめてしまったのが誤算といえば誤算で今や完全にペーパードライバーになってしまいました。晴耕雨読も畑があってのことではなかったのですが、たまたま沼津で借りた住居の前が草ぼうぼうの空き地で所有者が誰かもわからぬまま開墾し野菜つくりを始めました。ただ勝手に人の土地を耕しては問題と思い看板を立てて断りの伝言をしておきました。百姓の面白さがわかったのが其の時で定年7~8年前ですからいわば晴耕雨読が性に合っていることが実証されたわけです。
百姓を選んだのにはこの理由だけではありません。哲学が必要でこれが無いと長続きしないでしょう。哲学というほどオーバーなものではありませんが考え方のよりどころになるものです。そもそも自分がどういう人間かは人生も後半にもなればある程度わかってきます。計画性が無くはないが充分とはいえず、自己コントロールは得意かと言うとそれほどでもないというようなことです。毎日が自由時間という定年後は、なにか自然に規制がかかるような仕組みに自分を置かないと、ややもすれば無為に流されてしまいそうです。こういう人間は自然を相手にするのが一番で、自然は待ってはくれませんのでそれなりの計画を立てるか、自然に従うしかありませんがそれにうまく対応できれば良い訳です。自然は怠け者を叱咤激励しながら従わせてゆくが、時に人は逆らいながらもそれを克服しようと色々試みる。この辺のところが面白いところで自然との共生というテーマの真髄ではないでしょうか。いうなれば蓋然性と意外性が繰り返し起きてくるところが面白いのです。もちろんこれは職業として取り組むにはただ面白いでは済まないのは承知しております。有機農法で苦労している姿をテレビなどで見ると商売といえ大変だなあという思いが一層強く感じられます。
そんなことから定年後のベースは百姓をやろうという思いが強くなってゆきましたが、肝心の土地の当てはまったくありませんでした。定年1年前位だったでしょうか隣町の葉山町で農家支援ボランテイアの公募があり夫婦で申し込みました。農家に渡りをつけておけば土地も借りられるかも知れないという下心見え見えですが言い換えれば、あらゆる手段を講じてこそ念願は適うものと言う固い決意の表れだとも言えます。結果的にそういう方もおりましたが、隣家で幼馴染の逗子の大地主の友人(故人)が近くに宅地ですが空き地を所有しておりました。ひょんなことから半分の60坪程度なら暫く使っても良いということになり、願っても無いありがたい話と即決です。定年直後で元気いっぱいだったこともあり、開墾を始めました。 一口に開墾といってもシャベルひとつで瓦礫が混ざる石ころだらけの土地を、4~50cm掘り下げ石を取り出し篩(ふる)いにかける単純作業を延々と行うのは、肉体と精神修業の何ものでもありません。約40坪の畑になるまで通算で2年間はかかったでしょうか、石ころを取り除くと体積は約3分の2になってしまったので、鎌倉市がやっている堆肥の無料配布を活用但しペーパードライバーの悲しさでなんと自転車で片道20分の距離を50往復以上はしたでしょうか土質改良に努めました。語れば血と汗と涙の結晶とも言うべき我が農園の生い立ちですがそれだけに土地に対する百姓の愛着はよくわかります。葉山町上山口の棚田を守る農家支援ボランテイア活動と、見様見真似と独学での宅地開墾農園の二本立てでいっぱしの百姓を語っておりますが、畑地が整備され農作業にも慣れてくると高々40坪程度では暇を持て余すようになりました。
後何をやるかこれが問題ですが、そんな時たまたま出席したアーチェリー部のOB忘年会で後輩が毎週強化練習会を有志でやっているので是非再開しないかとの話になり、渡りに船とそれに乗ったのが再「再開」のきっかけでした。実は再開をしたのはそれより16年前の卒業後23年振りでしたが、6年間かなり入れ込みましたが転勤を機に中断(10年になりますが)状態でした。再再開に合わせ新しい弓具一式を購入、いよいよ半農半弓生活に突入です。アーチャー環境として自転車で10分程度の逗子の射場は、和弓と共同使用のため平日月曜日は射場のお休み、火・木は午前中、水・金が午後、土・日は年間で配分というルールで運営されており、60mまで射てます。従って弓が射てない日はもっぱら畑を耕しそれ以外は練習に勤しむというタイトルの「半農半弓」生活に自ずとなるわけです。農の詳細は省略しますが、弓は150射/日・週6日をノルマ的(てき)目標にし、競技志向で極力競技会への参加を心掛けております。平日の射場は2~3人しかおりませんがじっくり心置きなく練習が出来ます。長距離練習は水曜会と称して横浜市の富岡射場に通います。たまに強化練に参加することもありますが、ほとんど夜の親睦会目当てで後輩と旧交を温めております。更にこれは後期高齢者時の楽しみとして中古ですがコンパウンドボウを入手し1回/週と決めて5月から練習をはじめました。其の他これも老後対策ですが、アーチェリー仲間と吹き矢同好会を立ち上げ用具の製作やら技量向上の練習やら競技会等それなりに楽しんでいます。ちかく有料講習会等をやろうかというところまで来ました。
この半農半弓生活は定年後の営みとしてはかなり満足のいく生活だと自負していますがもう少し知的活動も必要だとの認識はあります。加齢が進むと何と言っても認知症予防が最大の課題になりますが困った事です。何時まで弓が射てるかはこれからの精進次第でしょうが75歳ぐらいまでは、このまますうーといってしまうのではないかなとも思っています。その先はさてどういうことになりますか創部60周年のとき(78歳)はどうなっているか楽しみではあります。          

                                            (2010.9.16 創部50周年記念機関誌によせて)

 

             半農半弓その後

 

ワセダアーチェリー60周年記念号おめでとうございます。以下は2010.9.16創部50周年記念機関誌によせて記述したものの一部ですが今回続きを書く機会を得ました。
『・・・・・この半農半弓生活は定年後の営みとしてはかなり満足のいく生活だと自負していますがもう少し知的活動も必要だとの認識はあります。加齢が進むと何と言っても認知症予防が最大の課題になりますが困った事です。何時まで弓が射てるかはこれからの精進次第でしょうが75歳ぐらいまでは、このまますうーといってしまうのではないかなとも思っています。その先はさてどういうことになりますか創部60周年のとき(78歳)はどうなっているか楽しみではあります。』この文を書いて11年目に入りました。結論からいうとこのまますうーとゆくハズが残念ながらそんなに甘くありませんでした。70歳の秋練習中に突然下半身に異変が起き、ガチャっと纏まっていた矢がバラバラになりました。これは危険だと練習は即中止しましたが以降元に戻ることはありませんでした。若さと体力の自信は何所へ、ついに70歳にして挫折です。頭を含め上半身は特に変わりありませんが足の痺れがひどくスタンスしても踏ん張りがきかず射になりません。練習中、足が踏ん張れなくなり、まともに弓が射てなくなり、前年に発症した坐骨神経痛の再発です。整形外科でレントゲンを撮り、曰く「脊柱管狭窄症」 とのこと。その月の半ば頃、掛川つま恋での「第17回マスターズINしずおか」の試合にエントリーしており、やばいことこの上ない状況です。なんとか棄権せずに出場する予定ですが、当日これは無理とわかったらそれまでです。なにせ3連覇がかかっており、クラスが変わり70歳以上というクラスなので確実と思っていたのですが好事魔多しということでしょうか。試合に臨んだのですが結局途中棄権こそしませんでしたが、腰から下が不安定では踏ん張りが効かず射になりません。当然のことながら賞にはかすりもしませんでした。参加することに意義なんてありません。競技会に出る以上「枯れ木」では面白くもおかしくもありません。と言ったことで半農半弓生活に挫折後しばらくは逗子の協会のお手伝いをしていました。休会扱いにしてもらっていましたが、現在はアーチェリーとも完全離脱状態となってしまいました。最近は弓の仲間とも疎遠になりがちです。コロナに席巻されている世の中ですがワクチンの接種開始や感染者数の減少で少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるようです。五輪組織委員会も会長の失言からはからずも社会の仕組みの見直しのきっかけになった感があります。とは言え60年前を考えると隔世の感があります。当時我が母校のアーチェリー部では女子を入部させるかどうかで議論がありました。創部は同好会から始め基本的には体育局入りを目指していました。信じられないでしょうが女子を入れると弱くなると言う考えが主流で女子部員は入れませんでした。その4~5年後にあっさり女子の入部を認め、創部20数年後に体育局に昇格し現在に至っていますが、今や女子が監督になり、リーグ戦では女子が常勝と言った感じで目出度し目出度しです。OB・OG会長はまだ男子がやっていますがこれも時間の問題でしょう。創部時代の監督は既に亡くなりましたが、先輩は80歳を超えました。隔世の感とはこういった現象面を言っただけで本質はあまり変わっていないのかもしれませんがそれが問題です。社会の仕組みの見直しのきっかけととらえた今回の失言問題で前向きな要素があるとすれば、『無意識の偏見』があるという事実が浮き彫りになりました。世の中どんどん変化していますがコロナ後の世界を見据え、我がアーチェリー部もどのように持ってゆくべきかしっかり考える良い機会になるかと思います。以前提唱して5年ほど続けたのですが「OB自身のためのOB会のイベントの実施」例えばアーチェリー&ゴルフ合宿、OB会と現役学生との交流のあり方等まだまだ課題は多いと思いますが皆さんはどのように考えておられるかしっかりした議論と行動が問われていると思います。      
 創部60周年記念機関誌によせて 2021.3.28