2019年卯月便り

皆様
いよいよ新年度の始まりです。
そういえば「平成」最後の月の便りとなります。
この便りは「年」表記は当初から西暦を使い、「月」表記は当初から「和風月名」の表記にしています。
現役時代、年の表記はそれまで何の疑問を抱かずに元号を使用していましたが、たまたま昭和から平成への改元に遭遇し
文書管理上の選択を迫られ、迷うことなく西暦に切り替えました。以降公的、私的を問わず元号を強制される文書
(何故か行政文書・銀行の文書が多い)はやむを得ず元号を使っていますがそれ以外は本能的に西暦を使用するようになりました。
本能的とはちょっとオーバーですが自然に頭に浮かぶ年の数です。元号に25を足せば昭和を西暦に、88を足せば平成を
西暦にと言った換算ルールなども本能的に出てきます。
和風月名ですがこれは何となく「季節の便り」にはこれがふさわしいのではと思って意識した記憶があります。
前置きは以上ですが平成最後の月の便り添付します.
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2019(平成31)年卯月便り
こんにちは。春爛漫まさに季節は着実に進んでいます。4月8日は花まつり天上天下唯我独尊」とお釈迦さまの誕生を祝い、周囲の花々は咲き乱れ、空からは産湯代わりの甘露の雨が降り注ぎ、世界中が輝き喜びで溢れたと伝えられています。政治・経済ときて今月は宗教となればこれはこれでまた厄介です。あまり信心深いとは言えないので「宗教観」と言ったことになろうかと思います。菩提寺高野山真言宗黄雲山逗子大師延命寺ですが、両親の葬儀やその他の法事でお世話になっております。年数回墓参りに行ってはいますがそれ以上でも以下でもありません。また近くにはかの有名な鶴岡八幡宮があり新年の初詣には必ずお参りしていましたが今年は歩いて数分村の鎮守の亀ヶ岡八幡宮で済ませてしまいました。宗教的行為は日本人の極めて一般的な行為であるお寺で手を合わせ、神社では拍手を打つことぐらいしかしていませんがこの行為をなぜかほとんど疑問を持たずにごく自然にやっております。神社参拝の作法として、通常は「二礼二拍手一礼」ですが出雲大社特有の参拝方法は基本的に「二礼四拍手一礼」と言う事も何故か知っています。正式な参拝方法はもっと複雑でややこしいようですがこれ以上は良く知りませんしあまり知ろうとも思いません。お寺では山門で一礼し本堂で合掌するといった程度のお参りをします。さらに絵馬をお土産に買い求めています。本来絵馬は神社や寺院に祈願するとき、あるいは祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに社寺に奉納する絵が描かれた木の板ですが当方にとってはなぜか特有のデザインの一服の絵画であり、一種の収集癖から全国各地の絵馬を集めています。旅行などでその地に有名な神社仏閣があれば必ずお参りします。この行為は宗教心からというよりむしろ歴史や文化に興味があるからです。このように極めて信心深いとは言えない人間ですが何故か宗教は無視できないというより興味があります。宗教の本源はどこから来るのか対象は人であったり、自然であったり、事象であったり色々ですが「畏怖」と「敬意」ではないかと思っています。こういったことが常に頭の中にあるかというと全くそうではなく何かの時にふと出てくるといった方が当たっていると思います。何かの時とは例えば事件であったり、事故であったり、災害であったり、悪いことだけでなく祝い事であったりそういった日常の中で偶に起こる出来事にふと思い浮かんでくるといった方が当たっていると言えるでしょう。考えてみるとこういった行為は宗教心ではあるが、信仰心ではないような気がしています。特定の宗教例えば仏教・キリスト教イスラム教といったような宗教を信ずる行為を信仰心というのではないかと思いますが宗教心はそう言った特定の宗教ではなく、ごく一般的な畏怖とか敬意といったような感情から自然に湧き出てくるものと言った方が当たっているような気がします。靖国神社明治神宮にも近くに行ったらごく自然に参拝しますが別に神道を信じているわけではありません。政治的に考えたらいろいろ批判が出そうですが、ごく単純に死者の御霊を敬い先祖にお参りするといった程度で、やれA級戦犯との合祀だとか妙な理屈付けは全く思い浮かびません。死んだらみな同じ「仏様」といった日本人の感覚に疑問など出てきません。以上宗教について思うところを書いてみましたが特別な思想など無く極々当たり前の心の問題かと思いますが実際記述してみると結構厄介です。では御機嫌様さようなら。
2019(平成31).4.1 
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