安倍晋三元首相死亡 奈良県で演説中に銃で撃たれる




演説中に銃で撃たれた安倍晋三元総理大臣は、治療を受けていた奈良県橿原市内の病院で亡くなりました。67歳でした。
安倍晋三元総理大臣は東京都出身で、祖父は日米安全保障条約を改定した岸信介元総理大臣、父は自民党幹事長や外務大臣を歴任した安倍晋太郎氏という政治家一家に育ちました。
成蹊大学を卒業後、アメリカ留学を経て鉄鋼メーカーの神戸製鋼所に入社し、その後、父、晋太郎氏の外務大臣就任を機に、大臣秘書官となります。
晋太郎氏の死去を受けて、地盤を引き継ぎ、平成5年の衆議院選挙に旧山口1区から立候補して初当選しました。
総理・総裁の登竜門とも言われる党の青年局長や、社会保障を担当する党の社会部会長などを歴任し、第2次森内閣小泉内閣官房副長官を務めました。
北朝鮮による拉致問題に早くから取り組んでいた安倍氏は、小泉総理大臣とともに北朝鮮を訪れ、キム・ジョンイル金正日)総書記との首脳会談に立ち会いました。
そして、平成15年には閣僚や党の執行部ポストを経験しないまま、小泉総理大臣から49歳の若さで党の幹事長に抜てきされ、平成17年の第3次小泉内閣では官房長官として初入閣します。
長期政権を築いた小泉総理大臣の後継を選ぶ平成18年の自民党総裁選挙に立候補して、初めての挑戦で総裁に選出され、戦後最年少の52歳で総理大臣に就任しました。
在任中は、小泉氏の靖国神社参拝問題で関係が冷え込んでいた中国や韓国を訪問して、関係改善に努力する一方、「戦後体制からの脱却」を掲げて改正教育基本法憲法改正の手続きを定める国民投票法などを成立させました。
しかし、公的年金の加入記録のずさんな管理が明らかになったほか、閣僚の辞任が相次ぎ、平成19年の参議院選挙で大敗して、いわゆる「ねじれ国会」を招きました。
そして、みずからの健康状態の悪化もあって、就任からおよそ1年で退陣しました。
退陣後は、超党派保守系の国会議員による政策グループ「創生日本」の会長として、拉致問題の解決などに取り組んでいましたが、自民党が野党時代の平成24年に再び総裁選挙に立候補します。
決選投票で総裁に選出され、その後の衆議院選挙で政権を奪還して、総理大臣の座に返り咲きました。
第2次政権では、デフレからの脱却に向けて、「経済再生」を最優先に掲げ、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の「三本の矢」による「アベノミクス」を推進し、経済の活性化に取り組みました。
また、消費税をめぐっては、平成26年に税率を5%から8%に引き上げたのに続き、令和元年には、食料品などの税率を8%に据え置く軽減税率を初めて導入したうえで、10%に引き上げました。
また、上皇さまから天皇陛下への皇位継承にあたっては、一代かぎりの退位を可能とする特例法の整備やそれに伴う改元にも取り組みました。
総理大臣就任の翌年には、東京オリンピックパラリンピックの招致の先頭に立ち、東京開催を勝ち取りました。
外交面では、「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ、在任中に延べ176の国と地域を訪問し、平成28年にはG7伊勢志摩サミット、令和元年には日本で初めてのG20大阪サミットを開催しました。
伊勢志摩サミットの終了後には、現職の大統領として初めて、当時のアメリカのオバマ大統領の被爆地・広島への訪問を実現させる一方、安倍氏自身も、現職の総理大臣として初めてハワイの真珠湾を訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊しました。
オバマ氏の後任のトランプ氏とは、大統領就任前に各国の首脳の中でいち早く会談して個人的な信頼関係を構築し、電話での会談を含めると、首脳会談は50回を数えました。
また、経済外交では、TPP=環太平洋パートナーシップ協定の交渉を進め、アメリカが離脱したものの、11か国が参加する形での発効にこぎつけました。
さらに、安全保障分野では、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を限定的に容認する閣議決定をしたうえで、安全保障関連法を成立させ、戦後日本の安全保障政策を大きく転換しました。
また、憲法改正の実現を目指して具体的な改正項目の取りまとめを指示し、安倍政権のもとで自民党自衛隊の明記など4項目の改正案をまとめました。
この間、安倍総理大臣は、衆・参合わせて6回の国政選挙で勝利したほか、平成30年の自民党総裁選挙では党則の改正で可能となった3選を果たすなど、「安倍1強」とも言われる政治情勢が続きました。
一方、森友学園をめぐる財務省の決裁文書の改ざん問題や加計学園の問題、それに「桜を見る会」の対応などについて国会で野党から追及が続き、自民党内からも「長期政権によるおごりやゆがみの象徴だ」との指摘も出ていました。
そして、令和2年には、新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大し、特別措置法に基づく「緊急事態宣言」を初めて発出するなど対応にあたりましたが、持病の潰瘍性大腸炎が再発し、8月に総理大臣を辞任しました。
総理大臣としての連続の在任期間は7年8か月、第1次政権と合わせた通算の在任期間は8年8か月に達し、いずれも歴代最長です。
安倍氏は、総理大臣退任後、しばらく無派閥で活動していましたが、去年秋に9年ぶりに出身派閥に復帰して、党内最大派閥の「安倍派」の会長に就任し外交・安全保障政策や積極財政の必要性などについて活発に発言していました。
安倍氏は、8日午前11時半ごろ、奈良市内で演説中に銃で撃たれ、橿原市内の病院に運ばれ治療を受けていましたが、亡くなりました。
67歳でした。

安倍氏の経済・財政対策

安倍元総理大臣は、2012年12月に発足した第2次安倍政権で「アベノミクス」と呼ばれる一連の経済政策を打ち出し、デフレからの脱却と持続的な経済成長を目指しました。

政策の柱は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「成長戦略」の3つで、これらの政策は3本の矢とも言われました。

金融政策では、2013年1月に政府と日銀が異例の共同声明を発表し、日銀が「2年程度で2%の物価上昇率を達成する」という明確な目標を掲げました。

そして日銀は、黒田総裁のもとで、2013年4月から「異次元」と称する大規模な金融緩和に踏み切りました。

これに金融市場は反応し、2011年に1ドル=75円台の最高値を記録した超がつくほどの円高は、急速に円安方向に動き始めます。

2015年には、1ドル=125円台まで円安が進みました。

株式市場も急速に回復し、政権発足前日の2012年12月25日に1万80円12銭だった日経平均株価は、2018年10月2日には2万4270円62銭となり、当時としておよそ27年ぶりの高値をつけました。
企業業績も回復し、これに伴って有効求人倍率は、2018年8月にはおよそ45年ぶりの高い水準まで改善しました。
一方で、政権発足直後の2013年度は、GDP国内総生産の伸び率が2.7%に高まったものの、ほとんどの年度で伸び率は0%台から1%台にとどまり、「景気回復の実感が乏しい」という指摘も出ていました。
また、目標に掲げた2%の物価上昇率も達成できませんでした。
安倍氏は、在任中、2度にわたって消費税率を引き上げました。
高齢化が進み、増え続ける社会保障費などを税収だけでは賄えず、第2次安倍政権で、社会保障費の財源を確保し、財政の健全化も進めるため、2014年4月に消費税率を5%から8%に引き上げました。
増税後に個人消費が落ち込んだことなどから、税率の10%への引き上げは2度、延期しましたが、2019年10月には10%に引き上げ、食料品などの税率を8%のままで据え置く軽減税率を導入しました。
増税による税収は、幼児教育や保育の無償化の財源に充てることにして、社会保障制度を全世代型に転換することを目指しました。
通商政策では、自由貿易の推進を成長戦略の柱に掲げ、TPP=環太平洋パートナーシップ協定や日本とEUヨーロッパ連合EPA経済連携協定など、大型の貿易協定の発効につなげました。
安倍元首相と東京オリンピックパラリンピックとスポーツ界
安倍元総理大臣は、去年、57年ぶりに東京で開催された東京オリンピックパラリンピックに招致の段階から先頭に立って関わるなどスポーツ界にも大きな功績を残しました。
2013年9月にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC国際オリンピック委員会の総会で当時の安倍総理大臣は最終プレゼンテーションに立ち、東京電力福島第一原発の汚染水の問題について、「コントロールされている」と説明しました。
そして、東京は財政基盤が安定していて世界で最も安全な都市であることをアピールし、1964年以来となる、東京オリンピックの開催が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックの閉会式ではゲームキャラクターの「マリオ」の姿で登場し、東京大会のPRに貢献しました。
新型コロナウイルスの感染が世界で拡大する中で迎えたオリンピックイヤーの2020年3月には、安倍元総理大臣はIOCのバッハ会長と電話会談し大会の1年程度の延期を提案しました。
これによって、東京オリンピックパラリンピックは史上初めて延期されることが決まりました。
すでにギリシャから日本に聖火が運ばれ、聖火リレーがスタートする直前でした。
その年の9月に総理大臣を退任したあとにはオリンピックの普及や発展に貢献したとして、IOCから「オリンピック・オーダー」と呼ばれる功労章の金章が贈られ、その後も大会組織委員会の名誉最高顧問を務めて、東京オリンピックパラリンピックの開催に尽力しました。
また、大学時代にアーチェリー部に所属していたこともあり、長年にわたって全日本アーチェリー連盟の会長を務めていました。