2011年卯月便り

2011年卯月便り
こんにちは。
2011年3月11日午後2時46分このタイミングで、まさに千年に一度という大地震が起きました。震源地は三陸沖の牡鹿半島の東南東130キロ。震源の深さは約10キ ロ。地震の規模を示すマグニチュード(M)は9.0。そして今日、月が替わりましたが福島原発放射能漏れが止まらないうちは、震災はまだ進行中と言わざるをえません。津波の被害は膨大で行方不明者の捜索、遺体収容、瓦礫の撤去等がまさに進行形で、復旧・復興に向けての歩みを踏み出したなどと言えないのが現状でしょう。そういった中で地震の時自分は何をしていたかですが、翌12日次のように記しております。

地震の時は射場でアーチェリーの練習中でした。いやにカラスの鳴き声が煩かったので「地震でも来るかな?」なとどと話をしていたら、まもなくグラグラグラッと、なんと地震観測史上初のM8.8(後に9.0に修正)とか....横に大きく、長い揺れだったので立っているのが大変な地震は初体験でした。その後も大きな余震が続いており、停電で電車も信号機も止まっていて道路は大混雑でした。当方の家族は全員無事です。息子は20時ごろ帰宅、その後帰宅出来ない会社の同僚を横浜まで送ると言って車で出かけましたが夜中の1時にはまだ帰っていませんでした。朝起きてみたら晩御飯が食べてなくなっていたので、その後に帰って来たようです。昨日は一晩中停電でした。仏壇から位牌が落ち台座が割れてしまいましたが、その他一階は問題なさそうです。娘は結局帰宅できず会社の友達が原宿におり、そこで一夜を過ごしたようです。無事はメールで確認済です。二階の娘の部屋はかなり悲惨で積み上げた本が散乱しており手が付けられない感じです。これは日ごろ整理整頓をせよという天の言葉でしょう。とは言え、いずれにしてもみな無事で何よりでした。今日午前中は山里会でジャガイモの植え付けの予定でしたが中止の連絡が朝ありました。午後は予定通り150射/日、ノルマのアーチェリーの練習に行きます。カミさんは体操の会があるようでしたが、これも中止の連絡が入ったようです。』 と。

また、3月14日(月)には「地震の後思うこと」として次のように記しました。
地震の後、状況が色々判明してきていますが、翌日が土曜日、さらに日曜日を経て今日に至っています。すなわち休日から種々の活動が始まる平日に入り社会的混乱が見えてきました。ご当地逗子では生活インフラのライフラインはすべて正常に機能していますが、交通機関は停電の影響からJRが麻痺しており、都心への通勤は京浜急行が唯一の手段です。現在の最大の懸念は電力不足による計画停電です。輪番停電とも言うようですが戦時中ならいざ知らず初めての経験です。肝心の東電に混乱があるようで情報発信がころころ変わり急な話で混乱を招いているように見受けられます。計画停電と言っても我々需要側としては突如の感を否めません。懸念される話はまだいくらでもあります。地震災害に直接会った被災地からはかなり遠いところにいる当方ですが、直接的被害者の心情は想像に難くありません。地震直後のかなり早い段階で海外の反応のニュースが伝えられ、日本が機能不全に陥っているとの報を聞いたとき、なんとオーバーな報道と冷ややかに聞いて いました。しかし現在の状況をみるとあながちオーバーではなく結果的にはかなり的確な見方だったと感じいっています。現在テレビではまだ被災者の救出やら行方不明者の捜索の報が生々しく伝えられていますが、この状態が何時終息に向かうのか判断に苦しんでいます。 当方はと言えば、取り敢えず10日後3月23日から友人(じじい3人)と台湾旅行を予定していましたが、参加中止を決定しました。』と。

さて現在は、これまでいろいろの状況を見ていると脳裏には次々とある種の思いが湧いてきます。主たるものは、地震津波への認識、災害時の行政対応とリーダーシップのあり方、原子力発電政策、災害に対する訓練と備えについて、インフラ壊滅という想定外の危機管理等、また今後については復旧・復興に対するシナリオが頭の中を交錯しています。例年でしたら今頃は桜のお花見でにぎわう時期ですが今年はどこも自粛でひっそりとしています。テレビ・新聞等で被災者の状況を見聞きするにつけ心が痛みますが、改めて被災地の皆様にはお見舞い申しあげる次第です。
2011年4月1日